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その理由はよくわからないが、おそらく、ヒトのような寿命の長い生物では、進化の歴史の間に、ガンウイルスの感染によって簡単にガンが発生することがないよう、ガンを起こすような恐ろしいウイルスに抵抗する働きが備わってきたものと考えられている
このことについては第九章で再び考えよう
一方、ウイルスが原因だとすれば、その地域中家族の間でガン患者があい前後して発生するといった、「伝染」を示す現象があってもよいはずだ
しかし、ごく稀な例を除いて、そのような気配すらなく
ガンは
ある日突然、ヒトを襲うのである
病気の発生状況とその要因との関係を統計学を使って調べる学問として、「疫学」の研究がある
ガンが日本人の死亡原因の第一位を占めるといったことを明らかにするのも、この疫学の方法を使って行われている
ガンについての疫学調査は、食生活の習慣、酒・タバコなどの嗜好品の摂取、そして大気や水の汚染が、ガンの発生に大きな要因となっていることを示している
つまり、ウイルスでガンが起きるというよりは、生活や職場の環境にある発ガン物質がガンの原因として重要だという結論が出されているのである
ガンウイルスの研究は、細胞ガン化のモデル実験として大切な役割を果たし、ガン遺伝子の発見へと導いたが、「ガンのウイルス説」は一般的にヒトのガンの発生を説明できるとは考えられていないのである
ヒトのガンの多くはガンウイルスが原因ではない
つまり、ガン遺伝子が細胞に送り込まれてガンが起こるわけではない
むしろ、発ガン物質や放射線が細胞の遺伝子に作用して突然変異を起こし、ガンを起こす
とすれば、細胞の遺伝子自身が変化してガン遺伝子になり、細胞がガン化した可能性が考えられる
では、一体、どの遺伝子がどのように変化するとガン遺伝子になるのであろうか?そこで、いよいよ、ヒトのガン細胞について、細胞をガン化させている遺伝子を直接調べてみようという研究が始められた
一九七六年、Mエ科大学のR.Wが来日した時のことである
私は夜の10時頃になって彼のホテルに呼び出された
彼は時差ぼけで眠れないとこぼし、疲れたような表情で「いま、新しい実験を始めているんだ」とつぶやいた
当時、彼はガンウイルスの研究をしていたので、二年前までアメリカで同じ分野の研究をしていた私は、彼がガンウイルスについてなにか重要な実験をしているのではないかと思い、しつこく聞いてみた
しかし、彼はジントニックを飲みながら、うつむいているばかりで、口をひらこうとしなかった
しばらくして、ぽつりと、「ヒトのガン遺伝子を探そうとしているんだ」といった
その来日の時の講演では、もっぱらガンウイルスの研究について話し、このことにはひと言もふれずに帰っていった
研究者は、ときに自分が進めている研究を根本から考え直し、まったく新しい実験を始める
そのようなときの期待と不安のいりまじった緊張感が、彼をとらえていたのであろう
日本の研究者は、毎日に追われ、自分の仕事の意義を根本から考え直してみる余裕がない
独創性に富む研究が生まれない理由の一つは、そんなところにあるのかもしれない
案の定、それから三年後に、彼らのグループは、まず、メチルヲフントレンという発ガン物質でガン化したマウスの細胞からDNAを抽出して、マウス培養細胞に移入したところ
培養細胞がガン化することを確認した
ついに、一九八一年、ヒトの膀胱ガンなどのDNAを、同じように培養細胞に加えて細胞のガン化がひき起こされることを報告したのである
こうして、ヒトのガン細胞のDNAには「ガン遺伝子」が含まれていて、ガン細胞のDNAを培養細胞に加えると、含まれていたガン遺伝子が培養細胞の中で働きだし、細胞がガン化することが明らかとなった
これは画期的な実験であり、単純明快な結論であった
遺伝子DNAを培養細胞に移入する実験方法は「トランスフェクション」と呼ばれ、一九七一年、チェコスロバキア生まれの亡命フランス人研究者M.HとJ.H夫妻によって初めて行われた
後に、F.GとA.Dが、現在行われている方法に改良した
トランスフェクションは「トランスファー(移すこと)」と「インフェクション(感染)」に由来する合成語で、細胞にDNAを移し、侵入させることである
実際の方法は簡単である
そして、Wたちは、NIH/3T3細胞にガン細胞のDNAを移入したところ、フォーカスが現れることを認めたのである
こうした実験で、人為的に細胞をガン化させることを
自然発生のガンと区別するために、「トランスフォーメーション」と呼んでいる
この実験によってできたガン化した細胞、つまり、「トランスフォーメーションを起こした細胞」が取り出され、その性質が調べられた結果、自然発生のガン細胞の性質とよく一致し、マウスに移植するとガンを作ることが確認された
こうしてヒトのガン細胞のDNAはトランスフォーメーションを起こす働きがあることが明らかにされたのである
Wたちの成功は多くの研究者たちに刺激を与え、同じ年のうちに、H大学のG.K、それにK研究所のM.Wなど、アメリカのいくつかの研究室で同じような研究が行われ、競うように実験結果が発表された
いずれにせよ、NIH/3T3細胞をトランスフェクション実験に用いている
その結果、ヒトの膀胱ガン、肺ガン、大腸ガン、神経細胞のガンから得られたDNAはトトランスフォーメーションを起こすことが明らかにされたのである
もちろん正常な細胞のDNAではトランスフォーメーションは起こらなかった
これらの実験に使われたヒトのガン細胞のDNAのすべてが、NIH/3T3細胞にトランスフォーメーションを起こす働きをもつていたわけではない
試みられたうちで、おおよそ一〇分の一のガン細胞DNAがトランスフォーメーションを起こしたに過ぎなかった
それでも、これらの研究結果は次のような三つの重要なポイントを教えてくれたのである
ヒトのガン細胞は、ガンウイルスが原因ではない
だから、ウイルスのガン遺伝子が細胞の外から送り込まれたわけではない
とすれば、やはり、ガン細胞では細胞の中にあった遺伝子に変化が起こってガン遺伝子ができていたのだ
ここで、「ガン遺伝子が移入されただけで「トランスフォーメーションが起こること」が何を意味するか考えてみょう
一般に、遺伝子の働きが変化した場合、本来の働きが失われたか、あるいは、新しい働きが得られたか、どちらかが考えられる
ここでガン細胞では、ある遺伝子が変化して働きを失っており、そのために細胞がガン化したと仮定しよう
けれど広く実験に用いられる前のNIH/3T3細胞はガン化していないから、この細胞では、ガン細胞で失われている遺伝子の働きが正常に作用しているはずである
だから、働きが失われた遺伝子が移入されたとしても、トランスフォーメーションは起こらないはずである
もちろん、NIH/3T3細胞の正常な遺伝子が、移入されたガン遺伝子で置き換えられ、その結果、正常な遺伝子が失われてしまえば別だが、トランスフェクション実験では、こうしたことはほとんど起こらないとされている
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